フォト

rock show

  • ちなみに「五岳」店内風景は…
    単独の展示会を2回やらせていただいたことがあります。 2005年3月、長野市在住の頃お世話になっていた画材店「五岳」さんの吉田店の店舗内外ガラス壁面を2週間お借りしました。「ウィンドウ・ジャック」と題して作品だけでなくサポートしていたチームの応援グッズやスポーツへの入れ込みをパネルなどにして展示しました。 2009年3月、平塚市のスポーツ・バル「モト・ロッソ」さん店内のギャラリー・スペースを一ヶ月お借りしました。湘南ベルマーレの選手やサッカーの絵を中心に開幕ダッシュを後押しすべく「暑苦しく」展示しました。

as you like it!

  • モノトーン
    クリスの画風を気に入ってくださったアスリートの皆さん!あなたの輝きを永遠にしませんか?お気に入りの写真をお送りいただけば、それを写真とはひと味違う、情熱の一枚にしてお届けします。 料金例: A4サイズでフルカラーなら¥60,000、モノトーンなら¥30,000から注文をお受けします! (ご連絡は「プロフィール」の「メール」まで!) 作品例をこのアルバムにアップしておきます。発注なさるときの参考にしてください。

hot legs

  • 世界で一番お前が好きだーっ!
    2007年4月1日、クリスの初めての画集が出版されました。 嬉しかったな。書店を1日ウロウロしてました。 (ご購入ご希望の方は直接クリスまでメールで!)

aquatics

  • splash!
    愛すべき水生生物 - スイマーたち。 特に男子選手は「ミケランジェロの息子たち」と命名しております。

Gambino & other favorites

  • ドイツ大会のアポロン
    ガンバの選手を中心に「鈴木隆行以外」のお気に入りの選手をピックアップ!

turn yo wheels

  • Turn
    あたしが車椅子バスケットボール(イスバス)にハマったのは一重に仙台市の宮城MAXのエースにして日本代表のガード、藤井新悟選手の存在です。

not enough

  • Ish
    2003年から社会人サッカーを応援しています。特に地域リーグ。 さあ、素晴らしき4部の世界へようこそ。 (ここに掲載されているのはプロ球団に所属している選手ではありません。個別に掲載許可も取っていませんので、各々のページへのコメントは控えます。分かる人には分かる、ってことで。)

agony and passion

  • Before全国区
    あたしがサッカーを描くようになったのは鈴木隆行選手のプレーを見て「この人を描きたい」と思ったのがきっかけです。 描きたいものを見失っていたそれまでのクリスの絵描魂に火を付けてくれた鈴木選手には「感謝、永遠に!」です。

soccer critiques

  • 風景
    2007年6月-2008年3月に発売された「サッカー批評」のvol.35-38に連載された小宮良之さんの「カンプ・ノウで刻まれた想いを胸に」の挿絵を担当させていただきました。 地域リーグを応援してきていつも選手に「全国目指すぜ!」ってえらそうに言ってきましたが、ようやくクリスも全国デビューを果たしたのです。

approved and accepted

  • Splash!
    ここではコンテストで入賞、入選した作品を中心にアップしています。 現在はもう参加していませんが、講談社フェーマススクールズさんにはお世話になりました。全然絵が描けなくなった自分を何とかしたいとKFSの通信講座に入会して基礎を一から勉強し直し、卒業後はアートコンテストで特別賞をはじめいろんな賞をいただいて自信をもらいました。入会当初の目的だった作家名鑑「イラストック」にも卒業翌年から連続して6年間掲載していただきました。感謝しています。

2016年6月 5日 (日)

寂しい年

今日はハニーのお誕生日。
でも、もう、引退してしまわれたので。
一般の方にきゃあきゃあ言うほど若くもないので。
ただあたしの中でハニーの栄光は永遠なので。
そしてちょうど15年前に彼に出会ったので。
だからやっぱりあたしのサッカーの師匠であることに変わりはありません。
40歳のお誕生日おめでとうございます、鈴木隆行さん。

でも、今年はなんだか寂しいですね。
もう、鈴木さんはジョカトーレではない。

今年はデヴィッド・ボウイ、プリンスときて、今日はモハメド・アリの訃報。
こどものころにあこがれた人が次々と旅立っていく。
いったい、なんなんだ。

昨日たまたま見たNHKの「トットてれび」。
黒柳徹子さんの半生と日本のTV業界の歴史。
昨日は黒柳さんと故・向田邦子さんとの友情を描いた。
印象的なのは黒柳さんが向田さんが事故死した後、毎日のように入り浸った向田さんのアパートの前に佇むシーン。

あたしは5年前に夫を送り、両親ももう亡くなった。
親の時はただ周りの言われるままに葬儀を執り行い、違和感しかなかった。
夫の時は喪主だったが、悲しくて辛くて悔しくて、何も覚えていない。

あたしは熱心な仏教徒でもないのに仏教式で執り行うことへの罪悪感。
遠方から駆けつけた年老い、落胆する夫の両親に何もしてやれない無力感。
終わった後で(あれでよかったのだろうか)と襲ってくる、数限りない後悔。

5年たって思うのは「あたしの知らない夫の親しかった人たち」への対応だ。
結婚式も葬式も、すべては両親や親せきのために行った。
あたしはそこに、なんの心も思い入れも持ち合わせていなかった。
本の3日前まで元気だったのに、突然天国に行ってしまった夫。
仕事関係は職場の後輩の人、親戚関係は姉や義妹に連絡を任せた。
それでもう、いっぱい、いっぱいだった。
四十九日も一周忌もこどもと4人だけで執り行った。
初盆だけは納骨のために夫の実家に行ったけれど、それだけだった。

あたしが宗教や慣習に疎いばかりに、夫にお別れをする機会を奪われた人はいるだろう。
それが多いのか、少ないのか、それが気にするほどのことなのかどうなのか。
あたしには、わからない。

あたしが死んだら、子供たちはおそらく姉には連絡するだろう。
でも、それ以外には連絡する人もないんじゃないか。
さほど親せき付き合いはないからな。
仕事は今はほどんどネットを介しているから、パスワードくらいは教えておくか。
でも、葬式に呼ぶほどの長い取引でもないところばかり。

あたしが一番長く時を過ごし、楽しくともにいる友人たち、サッカーの仲間たち。
おそらくそういう人たちに何かあっても、あたしに連絡が来ることはないだろう。
あたしのこどもたちも連絡するすべもないだろう。

それは悲しいことかもしれないけど、それでいいのかな、とも思う。
あたしたちはスタジアムで出会い、スタジアムで友情をはぐくみ、スタジアムで別れる。
だから、あたしがいなくなっても、スタジアムで思い出してくれればそれでよいのかもしれない。
徹子さんが向田さんのアパートの前で一礼したように。
あたしもまた、葬儀会場など設けなくても友人たちはスタジアムで懐かしんでくれればよい。
そう思えるように、生きているうちに、会いたい人には会いに行かなければと思う。

2016年1月14日 (木)

やり直せることと、取り返しのつかないことと

クリスマスプレゼントを久しぶりにもらった。
今までと同じような、でもやっぱり同じではないクリスマスだった。

末っ子がくれたのが縄跳び。
運動不足解消のため毎日必ず100回飛ぶことにした。
実はあたしは小学生の頃は連続飛びすらまともにできないヘタレ。
ところが何十年ぶりかでやってみたらあっさりできた。
不思議なものだ。
大人になるに従って身体能力が上がったのか。
それとも何度も人がやるのを見て知らないうちにコツをつかんでいたのか。

自転車もそうだった。
35歳で(子供と3人乗りしたい!)と思って一念発起。
1歳だった末っ子が昼寝をしている15分ほどを使って家の前で練習した。
あっさり乗れた。
日曜の朝早起きして毎週練習したのは何だったのか。

跳び箱もそう。
小学生の頃どうしても4段以上飛べなかった。
娘が保育園の頃上手く飛べなくてしょんぼりしていた。
「跳び箱飛べへんかてなんも困れへんで。母ちゃんもアカンねんし。」
とか言いながらやってみせたら飛べてしまった。

どんくさくて、いじめられて、泣きべそかいてたあのころのあたし。
「泣かんでええで。ほっといてもできるようになるみたいやで。」
そう言ってなぐさめてやりたい。

科学的に考えたら体格や筋力の向上もあるとも思う。
だけど案外精神的なことが大きいのかなとも思う。
大人だからもう、自分の満足のためだけに「チャレンジ」すればいいだけだから。
「縄跳びノート」に〇や×を付けられることもない。
お姉ちゃんに借りた自転車を傷つけて怒られることもない。
跳び箱にしりもちをついてクラスメイトに笑われることもない。
ただちょっと勇気を出せば、どれもあっさりクリアできることだったのだ。

人生はやり直せる。

でもね、あのころのあたしはもう大人になってしまった。
しょんぼりしていた小学生のあたしに挽回のチャンスはない。
あたしの時間はもう、取り返せない。

同じように、あたしのこどもたちの子供時代は刻一刻終わりの時を迎えようとしている。
だからあたしは彼らと生きることを決心した。
4年ぶりにクリスマス会もやったりして、落ち着いた年末を久しぶりに過ごした。

先日成人の日でした。
今年はあの阪神淡路大震災の日に生まれた子たちが成人する年度。
東日本大震災のときに義務教育を終えた子たちが成人した年度。
時の流れはだれにも平等だけど、無情であり無常でもある。

生きていくのは辛いことの方が多いけど、生きていれば悪いことばかりじゃない。
がんばって生きていきましょう。
あたしたちは縁あって今のこの時代を一緒に生きている。
どうせ行くなら笑顔でやっていこう。

2015年7月 7日 (火)

千里万里の想いを超えて

去年PCとスマホを買い替えた。

慣れないもので、いまだに機能が使いこなせていない。

で、まあ、PCのイメージディスプレイが勝手にデスクトップ画面に登場して頼みもしないのにメモリーに内蔵されている古い画像をスライドショーで見せてくれる。

何でそんなことになったのかわからないので、どうやって消したらいいのかもわからない。

そのままにしているので毎日毎日、あたしの家族の以前の姿を顧みることになってしまった。

まだこどもたちが幼かったころ。犬が子犬だったころ。相方が、元気だったころ。

ここへ引っ越してくるとき、かなりいろんな写真やアルバムを捨てた。

そもそも以前からあまり昔の写真を懐かしんで見る習性もなかった。

だから本当に久しぶりに10年20年ぶりに見るようなものばかり。

(ああ、こんなにもかわいかったんだ。愛しかったんだ。)

毎日毎日、PCを立ち上げるたびに思ってしまう。

失って初めて知る大切さ。

自分はなんて愚かだったのだろうと思い知る日々である。

天国に行ってしまった相方はもとより、こどもたちも、もう二度とこの愛らしいこどもの日々は帰ってこないのだ。

今年の梅雨は雨が多い。

毎日毎日、鬱陶ししいね。

平塚の七夕まつりも結局ずっと雨だった。

七夕の夜くらい晴れてほしいのに、今夜も雨だってね。

一年に一度でも、会えるのならいいじゃないか。

もう二度と、会えないことがあるなんて。

さよならだけが人生だ。

ああ、ああ、なんて馬鹿だったんだろう。

ブログはかなりご無沙汰です。

フェイスブックの方がお手軽だもんね。

インスタグラムも始めてしまいました。

あたしはあまり写真を撮られるのが好きじゃないの。

昔からそうだったけど、最近は特にすっかり太っちゃったし、老けてきたし。

自撮画像をアップするような人は自信があるからだよと、決めつけてた。

でも、PCのスライドショーを見ながらふと思ったの。

あたしはこの人たちの中にいて、この人たちとともに生きている。

この人たちと一緒にいる自分を見ることで初めて自分を客観的に視ることもできるのじゃないか。

逃げてはダメなのだ。

逃げたければ、逃げたいほど嫌な自分なのなら、自分を変えなければならない。

自分だけ逃げながら、大好きな人たちの画像をホイホイ上げているのは失礼だ。

そう思って、醜い自分を直視することにしました。

なんや最近このぶっさいくなおばはんをSNSで見ることが増えたなあと思ってらっしゃる方がいらしたらごめんなさい。

ネットだけでつながっている方もいて、(元気そうで安心した)とおっしゃってくださる方もいるのです。

せめてみなさんを不愉快にしないよう、楽しいシーンをアップできるよう、つまりはあたし自身がもっと人生を楽しんでいこうと、そう思っています。

2015年3月11日 (水)

ロールキャベツ

去年は老いも若きも「アナと雪の女王」で盛り上がっていた。
あたしは映画を見ていないけど、主題歌は何度も聞いたのでそのつもりがなくても大体覚えるほどだ。
限られた文字数とメロディにきちんと合う歌詞にしなければならないという縛りの中で、日本語版はよくできた翻訳だったとは思う。
ただ肝心のサビがどうしてもしっくりこない。

Let it go.

「ありのままで」というのはあたしのなかでは緊張感から解放される状態に思える。
しかし英語の方には意思の存在を感じるのだ。
抑圧からの解放 ― でもそれは自らがうちからほとばしるものをせき止めようとするのをやめようという決意によってだ。

解き放て。

アメリカにおいては常にどのような状況でも意思の力が物事を左右するからかもしれない。
だからこそ、あるがままを受け入れてほしいとは思うのかもしれないが、そのきっかけを作るのも自らの意志だ、とディスニーは力強く歌い上げている。
日本語で甘く切なく「ありのままで」と歌われても(ありのままじゃかんやろ?何も変わらんやろ!?)と思ってしまうのはあたしがひねくれているからなのか。

母があたしに最後に作ってくれたのはロールキャベツだった。
亡くなる2か月ほど前に帰省して、鍋にあったものを温めて食べた。
少ししょっぱかったが、良く煮えていて美味しかった。
母は料理をほめると自慢話が止まらなくなり、注文を付けると反論が止まらなかった。
思春期ともなるとそういうのがめんどくさくなり、あたしは母の料理をだまって食するようになった。
いつしか母もそれを承知し、おかりをすれば気に入り、あたしは食べ物を残さないのでつがれたものをさっさと食べ終われば気に入らなかったのだと理解していたと思う。
しかしあたしもいつまでも成長期ではないので美味かろうが不味かろうがお代りなどしなくなった。
それでもは母いつも執拗におかわりを勧めた。

その2か月後に尋ねたときはもう、母は炊事が出来なくなっていた。
あたしを姉やヘルパーさんと間違えているような言動も散見された。
構わなかった。
母が「苺が食べたい」と言うので商店街中の和菓子屋を回って苺大福を買ってきた。
母は嬉しそうに大福にかぶりつく。
「いつもはこんなに食べられないけど、今日は一個全部食べたわ‼」
晩御飯に何が食べたいかと聞くとおなかがいっぱいだからもう食べられない、と言う。
あたしはまた商店街に買い出しに出かけ、すき焼きの材料をそろえた。
母は早々に布団に入ってしまっていたが、グツグツと牛肉の煮えるにおいがし始めると起きてきて「自分も少し食べたい。」と言った。
「美味しいわ‼あなたお料理上手ね。毎日来てほしいわ。」
ヘルパーさんと間違えてる。でも、かまわなかった。
褒めてもらいたいんじゃない。喜んでもらいたかったんだ。

その一か月後、母は自分のベッドで、あたしの腕の中で死んだ。
相方もその2年前に病院のベッドで、あたしの見ている前で息を引き取った。
あたしは何もできず、いずれの場合も医者が到着すると腰が抜けた。

目の前で人が死ぬということ。
経験しないとわからないよな。
ほら、黙祷ってやるじゃない?
広島の原爆投下とか阪神大震災だとか、黙祷しますよ、あたし。
でもね、毎年毎年、あたし、あの二人が亡くなったあの日、あの時は、気持ちがおかしくなっちゃうのよね。
とてもじゃないけど、黙祷なんてできる精神状態じゃない。
どっちも夜だから、酒飲んで寝ることにしてる。
(どうか目が覚めたりしませんように)って祈りながら。

でも、そんなもんだと思ってる。
誰かのことを、何もかもわかるなんてできない。
でもだからって、何もかも経験しなければ何も言えないなんて思わない。
あたしは22回引越を経験したけど、23回引っ越した人にはかなわない。
一度も生まれた町から出たことがない人から面白い話を聞くことだってできる。

母があるがままのあたしを愛せなかったように、あたしもははのあるがままを受け入れられなかった。
お互いさまじゃないか、親子にも相性があるんだよ。
母のロールキャベツがしょっぱいとか、たまには醤油味じゃなくてケチャップのが食べたいとか、そういう些細なことだって、つもりつもればいろんな解釈ができる。
あたしが18で家を出るまで、母は毎日いろんなものをこさえてあたしに食べさせてくれた。
そのどの一つもあたしが受け継いでいなくとも、あたしの舌の記憶は母の「作品」であるのだ。

相方にも22年間の結婚生活の中でいろんな料理を食べてもらった。
美味しいと言ってもらいたいと、願いながら作るのだけど、それ以上にいまは、食べてくれる人のいるありがたさを実感している。
最後に食べてもらったのは何だったろう?
病院に戻る前の日にヨーグルトにすりおろしたリンゴを混ぜたものを食べた。
でも、あんなものは料理じゃないし、すぐに吐いてしまったし。
彼はオムライスが好きだったのにコレステロール値を気にしていつも卵一個だけで薄焼き卵のようなのでチキンライスをくるんだものを出していた。
こんなことなら卵半ダースくらい使ったとろっとろのオムレツを乗せたのをおなかいっぱい食べさせてやればよかったと今でも後悔している。

人生を何度もやり直せる、そう思って生きてきた。
(どうしようもないあたしだけれど、もう一度チャンスをください。)
だからなおのこと、取り返しのつかないこと、というのが一番つらい。

ロールキャベツを作ろう。(雪だるまじゃないよ)
見た目は草食だけど中身は肉食の人間?
違うなあ。
醤油にケチャップ、たまにはホワイトソースや味噌なんかどう?
味付けはなんだっていいんだ、そんなのはうわべだけの問題。
大事なのはキャベツがくたくたになるまでじっくり煮ること。
焦っちゃダメ。人生と一緒。

2015年1月10日 (土)

独り立つきみへ

おにいちゃんにすき焼きを食べさせて駅まで送る。 どうか、どうか、体調を崩さずに元気でいてほしいと願う。 別れた後、一人で車を運転するのはいつも切ない思いになる。 あたしをこんな気分にさせるのは、どんな恋人にもできることではない。 あたしも25歳だったか、営業職になって最初の正月に過労で倒れた。 あのころはつらかった。 絵筆一本で世界を征服するはずだったのだ。 それが日本に帰ってきて、夢を見失い、自分を見失った。 やりたい仕事ができず、なりたい自分になれなかった。 12日は成人の日だ。 成人するとはどういうことか。 あたしは大人になりたくないなどと思ったことはない。 早く独立した社会人となって、自由を手に入れたかった。 社会で成功さえすれば、自由が手に入ると思っていた。 三浦知良選手がTVで発言している。 「向上に対する意欲、魂は10代のころから何ら変わらない。」 あたしは社会の物差しで自分を計るあまり、自分を見失ったのだ。 社会がどうあたしを評価しようと、あたしがあたしを見失っては自由など得られない。 あたしは、あたしを殺すことが大人になることだと勘違いしていた。 自分が望んだ未来でなければ、そんなものはいらないと頑なであった。 現実社会とどう折り合いをつけるか、納得できる落としどころを見つけられなかったのだ。 だから自分を殺し、社会が望む女を演じ、いつしか自分の人生を生きることを忘れてしまった。 成人する人たち、社会に出る人たち、新しい一歩を踏み出す人たち。 どうか、後悔することのない道を歩んでください。 あたしはこの国に、若者殺しのこの国に、殺されたと思っていました。 でも、選んだのはあたし自身なのです。 そしてあたしが投げ捨ててしまった「時間」は二度と戻らない。 人生はやり直せるけど、時間は取り戻せないのです。 どうか、自分を大切にしてください。 あたしはずっと何が描きたいのかさえわからない時期がありました。 でも、阪神大震災があって、これではだめだと思ったのです。 それから5年あがきました。 真っ白い紙を前にして、どんなに自分に絶望していても、無理やりにでもなにか描くことを自分に強いたのです。 ところがそんなあたしの「苦行」はあっけなくサッカーによって終わりました。 サッカーに出会ってあたしは描くことの楽しさを思い出したのです。 20代を棒に振ったあたしは40目前で自分を取り戻しました。 10代の頃と何ら変わらない、いや、それ以上の情熱を。 Love your body - Love your self. Enjoy football - Enjoy life.

2014年12月22日 (月)

因果応報

きりがない。
今年の9月、そう思った。
本当は銀婚式になるはずの日、息子と相方の故郷の地に立って、そう思った。

あたしは自分が許せなかった。
何もできず、相方を救うことが出来ず、一人だけ生き残った。
あたしは葬式の翌日結婚指輪を外した。
甘えちゃいけない。
空に向かって相方に語り掛けたりしない。
だけどあたしにはキャリアも貯えも社会的信用すらなかった。
毎日毎日、役立たずのごくつぶしと自分を罵りながら涙をこらえた。
相方が入院中は病院から家の間大泣きしながら歩いた。
でも、相方を失ってからは泣かなかった。
毎日毎日歯を食いしばって、奥歯が欠けてしまった。
仕事から帰るとご飯を作りながらお菓子をむさぼり、夕飯の間は酒をあおった。
そうしてどんどん体重を増やし、あたしは脂肪の鎧を身にまとった。
血液検査の結果は不健康な数値を次々と叩き出し、医者からは足が遠のいた。
(醜く年を取って早く相方のところに行きたい。)
あたしの老後の夢は死ぬことだった。
あたしは嬉々として自分を罰した。
それしかあたしの楽しみはなかった。

必ずかなう夢。
悪魔の甘美なささやき。

「明日死んでもいいように、今日を悔いなく生きよう。」
「苦しい時こそ笑っていこう。」
「今日がいつだって人生最高の日。行動こそが美徳。」
阪神淡路大震災以降、あたしはいつも自分にそう言い聞かせてきた。
でも、相方を失ってからは全てが空しく響いた。

父親を14歳で亡くすというのはどんなものだろう。
末っ子と二人で旅をした。
彼の父親が育った町へと続く路線。
「こっちに座ろう。」
「どうして?」
「海が見えるよ。お母ちゃん、好きでしょ?」
相方によく似た優しい子。
死んだように生きていてはいけない、そう思った。
あの時と同じだ。
夢を見失い、自分を見失い、自分が描く絵に絶望していた自分。
黒煙を上げて燃え上がる神戸の街を見ながら思った。
いままた、我が子の成長にあの時と同じような頭を殴られたようなショックを受けた。
(あたしはこの子のために、本当に活き活きと生きなければいけない。)

それでもやはり相方の命日が近付くと気持ちがざわつく。
15日は相方が58歳になるはずの日だった。
彼は3年前の誕生日の3日後に亡くなり、その3日後に葬儀を行った。
2年前も去年も、その1週間は精神状態が不安定で、体調を崩したり事故を起こしたりしてしまった。
今年は秋の旅の後心身ともに落ち着いていたのではあるが、やはり日々を慎重に過ごした。

なんとか「魔の一週間」を何事もなく過ごした今年。
まだ気を緩めるわけにはいかないが、一安心。
我が家は子供たちが小さかった昔からサンタが来ない家ではあるが、今年はどうしよう。
季節の行事は大切にしたいという思いはまだある。
相方を失い、一連の行事を体験して、形ばかりの儀式には相変わらず意味を感じない自分がいる。
さて。
とりあえず今夜は柚子湯くらいやろうか。
寒いんだから。
あったまるくらいいいだろう。

2014年9月26日 (金)

銀婚式

25年前に相方と入籍した。
だから今年の記念日は銀婚式のはずだった。

先月末に相方の母が入院した。
ということで末っ子を連れてお見舞いに行く。
たまたま、25年前の入籍したその日だった。
義母はベッドの上ですっかり痩せて小さくなった体をこわばらせていた。
「おかあさん、お孫さんつれきましたよ。」...
弱っている高齢者と対峙するとつい「ヘルパーさん」のようにしゃべってしまう。
義母はうれしそうに笑って末っ子を見上げ、相方の名を呼んだような気がした。

(あんた、こんな親不孝ないで。)
日本一の孝行息子のはずだった相方。

相方の実家に行くと義父が迎えてくれた。
身体的にはいたって元気だが、しょんぼりして寂しそうだ。
義妹が何くれとなく世話を焼いている。
が、たとえ体が不自由であっても長年連れ添った妻がそばにいないと心細いのだろう。
「まだ○○(相方の名前)のところには行って欲しゅうないんじゃが。
はあ、お母ちゃんも年じゃけえのお。」

(あんた、ホンマに親不孝やよ。)
瀬戸内海を臨む相方のお墓に向かって独り言つ。

末っ子と二人で呉線の帰り道。
長旅につかれた息子はすぐ眠りに落ちてしまう。
左肩に軽く頭の重みを感じながら車窓越しにキラキラ輝く海を見る。
向かいには若い父親と母親。
母親のむっちりとした膝の上にはよくしゃべる小さな女の子。
(将来末っ子が結婚して赤ちゃんが生まれても、相方は会えへんのやな。
赤ちゃんはおじいちゃんに会えない、んやな...)

もう泣かないよ。
もういくら考えても答えは出ない。
もういくら慰めてもらっても納得できない。
だから、もう、自分を許してやることにした。
自分を許す努力をすることにした。
(老後の夢は死ぬこと)
なんて言わないことにした。

その夜、息子と原爆ドームを見に行く。
ライトアップされた世界遺産は圧倒的な迫力。
翌日は資料館も見学した。
資料によるとあたしの父と母が育った町は原爆が投下された爆心地から20㎞と離れていない。
でもあのころは避難なんかしない。
皆その地にとどまって、田畑を耕し、食物を育て、それを食べて暮らし続けた。
(被爆二世?)
あたしも相方も、そうかもしれない。
だれにもわからない。
この高齢化社会にあたしの親父は70を前に亡くなった。
相方はがんで55歳になった3日後に亡くなった。
あたしには、わからない。
あたしも長生きしないかもしれない。
別に一人だけ逃げ延びる気もないけどね。

いつか必ずかなう夢。
「死」
まあ、それなら、もう、いまのあたしは怖いものなしだ。

もう、うだうだと泣き言を垂れ流さないくらいにはなったと思うので、これからはまた、サッカーとか、ばかなこととか、絵とか、描こうかと思っています。
ホンモノの「怖いもの知らず」だった若いころのように、とはいかないかもしれんけど。
強かったあのころのように戻れるとも思えんけど。

でもさ、死ぬまで生きるしかしょうがないじゃないやんか。

2014年5月11日 (日)

苺大福

今日は母の日。
母という存在はこの世にたった一人しかいないのだな。
去年母を失ってその現実に愕然としている。

正直あたしは母とは折り合いがよろしくなかった。...
母はあたしを受け入れることができず、あたしはそんな母を許すことができなかった。
母に認めてもらおうとするのをずいぶん前に諦めてしまったので、あまり喪失感はない。
ただ、葛藤の日々が終わったのだな、というのが実感だ。

母の誕生日も月命日も何となく過ぎていくが、今日のこの日は日本中で何かというと「お母さんに感謝しましょう。」とキャンペーン実施中なのでつい母を思う。
母の望むようになれなかった自分に嫌悪を感じる。
そんなあたしにこどもたちは贈り物をくれる。
(ああ、ああ、あたしはそんな上等なものではないんだ。)

母の認知症がかなり進んでお見舞いに行ってもあたしのことがよくわからなくなっていることがあった。
あたしは嬉々としてヘルパーさんを演じた。
長年の確執なんか、忘れてくれてる方がありがたい。
胃がんだった母は日に日に食欲が落ちる。
相方の回復を信じて疑わなかったあたしは感染症にでもかかったら大変とばかりに生ものを避け、彼が好きだったお寿司やとろとろのオムライスなどを食べさせなかった。
とても後悔している。
母がもう余命いくばくもないのは受け入れていたので、少しでもおいしいと思うものを食べてもらいたいと日に何度も食材を買いに出て料理に励んだ。
褒めてくれることがなかった母が「美味しい」「また作ってほしい」「食欲がなかったのに食べられる」とうれしそうに食べてくれた。
「おまえなど生むのじゃなかった」「おまえとは一緒に暮らせない」と言っていた母が「あなたお料理が上手ね。ずっといてほしいわ。ありがとう。」と言ってくれた。

「苺が食べたい。」
9月に行ったときの母が言った。
しかし苺の旬は今の日本では12月で店頭に並んではいなかった。
あたしはふと思い立って和菓子屋に行ってみた。
苺大福が置いてあったので買い求め、急いで帰宅。
「あら、苺大福ね。久しぶりね。」
母はおいしそうにあっという間に平らげた。
おそらく、これから苺大福を見るたびに、母を思い出すのだろうな、と思った。

愛してほしかったのではないのかもしれない。
愛したかったのだ。
ただ、ありがとうと、言ってもらいたかったのだ。
あたしは母を幸せにできるなにものかになりたかった。

2014年3月11日 (火)

いのち、を凝視する

東日本大震災から3年である。
2011年というのはあたしにとって相方とともにがんと闘い、そして相方を失った年である。
当日の揺れは湘南エリアは震度3-4、交通機関は混乱したものの家に帰れないわけではなかった。
その後一か月以上「輪番停電」というものを経験し、スーパーから商品が消え、ガスステーションは常に長蛇の列であった。
しかしあたしにとってはそれはさほど大騒ぎすることではなく、目下の関心は停電によって相方の入院生活や治療に支障をきたさないかどうかということのみであった。

あたしは結局、その年の暮れに相方を失った。

相方を失い、病院から葬儀センター経由で家に帰り、最初に何を食べたのか覚えていない。
こどもが3人いるので、常に彼らの食事をどうするのか考え続けていたとは思うのだが、何を作り、何を食べさせたのか、まったく思い出せない。
阪神の時も、東北の時も、あたしは食べ物を求めて人が作る長蛇の列の光景がとても衝撃的だった。
食べなければ人は生きていけない。
どんな時でもちゃんとこどもを食べさせられる人になりたい。

注射されて泣いているあたしにお医者さんがくれたビスケット。
移民したおじさんが外国から送ってくれたチョコレート。
おじちゃんが亡くなった時に法事でおばちゃんが出した胡麻豆腐。
LAに引っ越してひとりぼっちだったときに食べた人参ケーキ。
母が倒れた時におばちゃんが食べさせてくれた温かいラーメン。
父が倒れた時におじちゃんが作ってくれた卵焼きとおにぎりのお弁当。
あのおいしさは忘れない。

でも、相方を失って、食べ物がどうでもよくなってしまった。
この2年で6㎏も太ってしまった。
体型も変わり、血液検査もいつも結果を見るのが恐ろしい。
食べることは生きること。
相方を失ったあたしは生きるのを辞めてしまった。

阪神淡路大震災であたしは「生き直す」ことを決意した。
あたしはそれまで描きたいことを見失い、夢を見失い、自分を見失った。
自分の人生を生きていなかった。
阪神にショックを受け、このまま死んだように生きるのは無念の思いで死んでいった人たちに失礼ではないかと思ったのだ。
あたしは翌年から再び絵を描くことを自分に強制し、苦しみながら基礎から絵を勉強し直し、5年後サッカーに出合って「蘇生」した。

相方の死後、あたしは自ら望んで死んだように生きてきた。
いつ死んでもいい、早く相方のところに行きたい。
そう思いながらそうならなかったのはひとえにこどもたちの存在だった。
あたしがどんなにもういなくなってしまった相方と「一緒に死んだふり」をしようとしても、生き生きと日々成長しているこどもたちはお腹を空かせて学校から帰ってくるのだ。
もう世界は終わったはずなのに、あたしがどんなに死んだつもりになっても、世の中は回り、あたしは仕事に出かけ、疲れたりお腹を空かせたりしているのである。
そんな自分に腹が立ちもしたが、どうしようもなかった。
あたしは死んでいないのだから。

もうなにもかも壊れてしまえばいいのに。
恵まれてる連中の既得権をめちゃめちゃにしてやりたい。
あたしばっかりなんでいつもひとりぼっちなんだ。

でも世の中がちゃんとまわってるから子供たちは育っていけるのだ。
ひとはひとりで生きていけない。
なんだかんだと、ひとりで子供を育てられない。

気が付けば相方が亡くなって間もなく2年と3か月だ。
今日は仕事帰りに防災無線が黙とうを呼び掛けていた。
大型トラックが行き交う道だったのであたしは立ち止まらずにぐんぐん歩いた。
(今晩なに食べよう)などと考えながら。

何年たったから大丈夫とか、そういうのじゃない。
でもこどもは違う。
あたしがうだうだ悩んでいる間に神戸の赤ん坊はもう19歳だ。
津波の日に生まれた子だってもうしゃべったりしているのだ。
あたしたしだって生まれた時から未亡人だったわけでもないが、最近は躊躇なくアンケート欄の「シングルマザー」だの「独身」だのにチェックを入れていたりする。

阪神の後あたしが「生き直そう」と思った一番の理由は(このまま死んだように生きている母親を子供に見せたくない。もし明日あたしが死んでも、こどもが生き生きとしたお母ちゃんを覚えていてほしい。)と思ったからだ。
相方を失ってからあたしは常に死に寄り添って生きてきた。
相方を一人で逝かせてしまったことへの後悔。
闘病中の相方の苦しむさまや死の瞬間を何度も思い出しては自分を責めてきた。

(なんであたしが死ななかったのか)
そう繰り返し思うことで、死んだふりをしている言い訳にしていたのかもしれない。
(あたしが死ねばよかったのだ)
そう自分に言い募ることで、無力感に浸りきることにしていたのかもしれない。

そうこうしているうちにも世の中は動く。
アベノミクスで世間は好景気だそうだ。
スマホすら手に入れていないのに、LINEでもういじめやら事件が起きている。
もう今年はブラジルでW杯だし、6年後のオリンピックは東京だって。
おにいちゃんは社会人になるし、娘は大学生、末っ子は高校生だ。

いつまでも死んだ相方に甘えていてはいけない。
あたしは「生きなければ」ならない。
「死」ではなく、「命」を見つめて歩き出さねばならぬのだ。
つないだ手をどちらが先に離したのか、もう考えても答えは出ない。

10年以上も描けなかったあたしだったが、すっかりへたくそになって絶望的になりそうだったが、絵はあたしを待っていてくれた。
阪神の後もがきにもがいてサッカーに出合い、描ける喜びを思い出し、あたしは「あたし」に帰ってきた。
今度も死んだふりをしている間にJ3というカテゴリーができた。
これはあたしたちのリーグだ。
あたしらのような下部カテゴリーを一生懸命さぽーとしてきたようなサッカーばかのためのカテゴリーだ。
J3を生かすも殺すもあたしら次第。

夢は待ってくれる。

2014年1月13日 (月)

二十歳のころ

今日は成人の日。

ひとりむすめが対象者。
ただ、親に連れられ5つの町で育った彼女は地元の成人式には出席しないと言う。
晴れ着もいらないという。
元気なころなら文句の一つも言いそうな祖母は昨年末亡くなった。
もう片方の祖母は呆けてしまってわからない。

長男の時は父親の四十九日も迎えていなかった。
彼は中学高校時代を過ごした兵庫の友達に会いに行ってしまった。

あたしは30年前アメリカにいた。
晴れ着を作ってやるから写真だけでも撮らないかと母が言ってきたが断った。
あたしはそれどころではなかった。
大事な決断を迫られていた。
アメリカに残って美術大学に編入するか、日本に帰って就職するか。
あたしは結局帰国を選んだ。
早く独立したくてしょうがなかった。
早く現実社会に出て自分の力を試したかった。
日本を出る前、あたしは自分に絶望し、日本に絶望した15歳だった。
滞米5年半の間に人生は生きるに値すると思い直し、自信を得て、やる気満々の帰国だった。

若者殺しのこの国に、あたしはあっけなく殺された。
夢を見失い、自分を見失った。

それから20年かけてあたしは自分と、自分の夢を取り戻した。
だから10年前のあたしなら、「人間はいつでもやり直せる。夢は待っていてくれる。」と後輩である新成人に伝えただろう。
いまでもその思いに変わりはない。
けれどそれからさらに10年が過ぎ、3人の子供のうち2人が成人した今思う;

時間は残酷だ

時間は誰にでも平等に流れ、過ぎ去った時間は取り戻せない。
この10年であたしは父と母と相方を失った。
どんどん厳しくなる生活の中で、せっかく取り戻した夢を追う暇もない。
ただでさえ大切な20代を棒に振ってしまったのに、最近は焦りばかりが付きまとう。

ここしばらく成人の日といえばいつも高校サッカー選手権の決勝を見て過ごしてきた。
今日は仕事でそれもかなわなかった。
ただ、今年は本田圭佑選手のミラン・デビューというニュースが飛び込んできた。
試合も素晴らしかったけれども、入団記者会見があたしには鮮烈だった。
本田選手は「ここまで来るのに時間がかかった」と言っていたが、「一歩一歩進んでいけば夢に届く」とも言っていた。
そう、夢は待っていてくれるが、進まなければ時間は過ぎるばかりだ。
彼は苦しみながらも前に進んできた。
あたしは簡単にすぐ歩みを止めてしまう。
この国に殺されたのではない - 自分で自分を野垂れ死にに導いていたのだ。

うまくいかないことを他人や時代のせいにするのを最も嫌っていたのではないのか?
近頃の若者は覇気がないという人間に限って、自分自身なにも努力していないのだ。
ただ思う、あたしは20代のころのように完全に自分を見失ってはいない。
なぜなら、伝えたいものがあるからだ。
若い人が良く「何がしたいのかみつからない」「何も感情が湧かない」というのを耳にする。
だが人間毎日何かしら楽しいと思ったり不愉快に思ったりすることはあるはずだ。
その小さな感情にきちんと向き合って、自分がどう考えているのかを分析してみようとしていないだけだと思う。

時には自分にとって不都合な現実にもしっかり目を向けてみる必要がある。
不便、不愉快、不都合の中に問題解決の種があったりする。
あたしの中身は今ドロドロの負のコンテンツで満たされていて、それを不平不満の垂れ流しのように表現することを拒絶するええかっこしいな自分がいる。
点から美しいイメージが降ってきてあたしに美しい絵を描かせてくれることを待っている。
そうやってまた、一日が無駄に過ぎていく。

あたしにはもうあとどれくらいの時間が残されているんだろう。

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